赤嶺議員は2000年の初当選以来、県民の命とくらし、沖縄と日本の進路に関わる様々な問題を国会で取り上げてきました。辺野古への米軍新基地建設、繰り返される米軍犯罪、沖縄の経済振興、沖縄戦「集団自決」をめぐる教科書問題、イラクやインド洋への自衛隊派兵、憲法違反の安保法制…。現場に駆けつけ、声を聞き、県民の願いの実現へ全力で頑張ってきました。
これまでに国会で行った質問や発言の回数を合計すると、873回に上ります(国会質問634回+質問主意書85回+発言62回+討論90回+答弁1回+動議1回。2024年8月22日現在)。
その一端をご紹介すると…。
■日米地位協定の壁に風穴を開ける
23年12月、米軍嘉手納基地所属の米兵が16歳に満たない少女を誘拐し、性的暴行を加えるという凶悪事件が発生し、しかも半年もの間、政府が事実を公表せず、沖縄県にさえ通報していなかったことが明らかになりました。この事件を含めて、政府は昨年以降、6件の性的暴行事件を隠蔽していたことが明らかになりました。
国会では、野党の要求で、24年7月30日、衆参の委員会で閉会中審査が行われました。赤嶺議員は衆院安全保障委員会で、外務省が通報しなかったために県は抗議要請もできず、米軍は何の対策もとらず、あってはならない事件が立て続けに発生したと批判し、「外務省の責任は重大だ。被害者と県民に謝罪すべきだ」と要求しました。議事録・動画はこちら→
米軍犯罪が繰り返される大本には、米軍の特権を保障した日米地位協定があります。歴代政府が同協定の改定に背を向けるもとでも、赤嶺議員は国会質問を通じて、その壁に風穴を開けてきました。
(1)日米間では、米軍関係者が飲酒運転をした場合でも、それが公の催事なら公務の性格を失わないという密約(1956年の日米合同委員会合意「合衆国軍隊の構成員又は軍属の公務の範囲について」)がありましたが、赤嶺議員は09年6月10日の衆院外務委員会で、「公式の行事であれば酒気運転してもいいんだよと。こんなことで米軍の犯罪が抑止できるのか」と追及。議事録はこちら→
その後、日米両政府は11年12月、同合意を改正し、飲酒後の自動車運転による通勤は、いかなる場合であっても公務として取り扱わないことに合意しました。
(2)米軍が犯した事件・事故で、米側が第一次裁判権を行使した場合の結果は、軍事裁判が行われた場合は、日本側に通報される仕組みがありましたが、懲戒処分の場合はありませんでした。赤嶺議員は08年8月、うるま市内で、米海軍兵が運転する乗用車が対向車線に進入し、当時38歳の男性が運転するオートバイに正面衝突し、死亡させた事故を取り上げ、米側が公務中を理由に裁判権を行使したうえ、その結果を遺族に報告さえしていないと追及しました(11年4月21日、5月26日衆院安全保障委員会)。議事録(4月21日)はこちら→ 議事録(5月26日)はこちら→
その後、日米両政府は13年10月、処分結果の相互通報制度に合意。裁判結果だけでなく、懲戒処分の結果についても、一カ月ごとに相互に通報するとともに、被害者や家族に対しても、懲戒処分の内容について、被処分者の同意が得られた範囲内で開示できることとする新たな仕組みを構築しました。
■基地あるが故の苦難の歴史を訴える
沖縄は戦後70年以上にわたって、米軍関係者による殺人・暴行・強盗などの凶悪犯罪、米軍機の墜落、昼夜を分かたぬ爆音、演習場からの流弾や原野火災、環境汚染など、基地あるが故の事件・事故に苦しめられてきました。多くの県民が名護市辺野古への米軍新基地建設に反対する大本には、こうした県民の苦難の歴史があります。
赤嶺議員は、2010年1月の衆院予算委員会で、自らの生い立ちに重ね合わせながら、こうした歴史を紹介し、基地の“たらい回し”ではなく、基地の縮小・撤去をすすめることを政府に求めました。自らの出身地である旧小禄村具志(現那覇市)であった米軍による強権的な土地取り上げ、由美子ちゃん事件や宮森小学校への戦闘機墜落、国場君事件など県民が虫けらのように扱われた米軍による占領統治、「琉球住民」としてパスポートを持って本土の大学に通った学生時代…。沖縄の米軍基地問題の原点を紹介した質問として、全国でも大きな反響を呼びました。 議事録・動画はこちら→
米軍基地の成り立ちに関わっては、2015年6月、自民党本部で行われた勉強会で、作家の百田尚樹氏が、同党出席議員の発言に呼応して、「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」「普天間飛行場は田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になるということで住み出した」などと発言したことが報じられました。
赤嶺議員が、7月の衆院安保法制特別委員会でこの問題を追及したのに対して、安倍首相は「普天間飛行場につきましては、その場所については、戦前、役場や国民学校、郵便局、病院などが所在し、街道が通るとともに集落が点在し田畑が広がっていたとされており、戦時中の昭和20年4月、米軍が上陸した後、土地を接収して普天間飛行場が建設されたものと承知をしている」と答弁し、米軍による土地の接収によって基地が形成された事実を認めました。 議事録・動画はこちら→
米軍占領下で、国際法にも違反して、住民の土地を強権的に奪ってつくった基地は、無条件で返還するのが当然です。宜野湾市のど真ん中に位置し、危険きわまりない普天間基地はただちに閉鎖・撤去すべきです。
■辺野古新基地建設ストップへ、翁長知事とスクラム組んで
2013年1月、沖縄県内の全41市町村・議会、県議会、経済・労働・婦人団体の代表らが、オスプレイ配備の撤回と普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念を求める「建白書」を安倍首相に提出しました。ところが、安倍政権は同年3月、「オール沖縄」の総意を無視して、辺野古新基地建設のための埋立申請書を沖縄県に提出。当時の仲井眞知事は同年末、政府の圧力に屈し、「県外移設」の公約をくつがえし、埋立申請を承認しました。
県民は、その後の一連の選挙で、公約破りを許さず、新基地建設ノーの意思を明確に示してきました。2014年11月の県知事選で当選を果たした翁長知事は、安倍政権による強権的な基地押しつけに屈せず、前知事による埋立承認を取り消し、裁判を通じた「和解」の成立をへて、辺野古の埋立工事を中止に追い込みました。
赤嶺議員は、こうした翁長知事の頑張りと結んで、民主主義も地方自治も無視した安倍政権による強権的な基地押しつけをはねかえすために国会で全力投球。2015年1月の衆院予算委員会では、県民の民意が示されたにも関わらず、選挙で選ばれた翁長知事に会おうともせず、問答無用で基地建設を強行する政府の姿勢を厳しく追及しました。 議事録・動画はこちら→
政府は同年8月から一ヵ月間、沖縄県との集中協議を行いましたが、「辺野古が唯一の選択肢」との立場に終始。10月に翁長知事が埋立承認を取り消すと、行政不服審査制度を濫用し、承認取り消しを執行停止にして工事を再開するとともに、取り消し処分そのものを消し去ろうと代執行手続きに着手しました。赤嶺議員は、11月の衆院予算委員会で、行政不服審査制度は、行政機関による違法・不当な処分から国民の権利利益を救済するためのものであることを強調。米軍基地の提供という国の事業で、しかも国としての立場で代執行手続きに着手しながら、私人になりすまして工事を再開する政府の姿勢を厳しく追及しました。 議事録・動画はこちら→
その後、2016年3月には、国と沖縄県との「和解」が成立。これに先立って裁判所が提示した和解勧告文は、政府と沖縄県の対立について、国と地方公共団体が、独立の行政主体として役割を分担し、対等・協力の関係になることが期待された99年地方自治法改正の精神に反すると指摘していました。赤嶺議員は、同月の衆院本会議で、和解勧告の趣旨を重く受けとめて、国の結論を一方的に押しつける姿勢を改め、沖縄県と誠意を持って協議を行うことを求めました。 議事録・動画はこちら→
政府が基地建設をごり押しすればするほど、民主主義も地方自治も無視した政府の強権姿勢が明らかになり、県民のたたかいへの共感が広がっています。政府は県民の民意を正面から受け止め、辺野古新基地建設を断念し、普天間基地の閉鎖・撤去を決断すべきです。
■高江オスプレイパッド建設に反対し、やんばるの世界自然遺産登録を求める
日米両政府は、1996年のSACO最終報告で、北部訓練場の過半(約3987ヘクタール)の返還に合意しました。しかし、返還区域にあるヘリコプター着陸帯を残余の部分に移設することなどが条件とされたために、返還までに20年を要しました。政府は、東村高江区の集落を取り囲むように、6つの着陸帯を新たに建設する計画を進めてきました。高江区の住民は二度にわたり区民総会を開き、建設反対の決議を上げましたが、政府は2007年7月、これを無視して工事に着手。住民は「平和に静かに暮らしたい」「やんばるの豊かな自然を守りたい」と抗議の座り込みを続けてきました。
赤嶺議員は、繰り返し現地に足を運び、政府への要請に同行し、国会質問で工事中止と計画の撤回を求めてきました。2001年2月の衆院沖縄北方特別委員会では、琉球大学と広島大学の琉球列島動植物分布調査チームが政府に提出した要望書(99年)を紹介しながら、計画の白紙撤回を要求。 議事録はこちら→
日米両政府は2006年2月、建設する着陸帯の数(7ヶ所→6ヶ所)や場所を変更することで合意しましたが、従来と同じ自然度の高い場所が建設予定地に含まれていました。赤嶺議員が、2007年3月の衆院安保委員会でその理由をただしたのに対し、政府は「米軍の運用上のニーズ」があったことを認めました。政府が実施した騒音測定調査についても、着陸帯上空でのホバリングだけで、集落上空を飛び交う住民被害の実態からかけ離れていることを追及しました。 議事録はこちら→
2016年7月、政府は、新たな基地の建設に反対する伊波洋一候補が安倍政権の現職大臣に圧勝した参院選の結果を無視して、投票日の翌日早朝から着陸帯の建設に強行着手。赤嶺議員は、10月の衆院予算委員会で、安倍首相が所信表明演説で「0.96ヘクタールのヘリパッドを移設することで、北部訓練場、4000ヘクタールの返還が可能になる」と強調したのに対して、事業に伴い整備や提供が必要になる面積は165ヘクタールに及ぶこと、着陸帯の建設が耐え難い騒音被害や環境破壊をもたらすことを明らかにし、建設工事の中止と北部訓練場の無条件返還を求めました。 議事録・動画はこちら→
2017年12月22日、政府は返還式典の開催を強行しましたが、同じ日に、翁長知事も出席して、オスプレイの墜落に抗議する集会が開かれました。高江の住民に、米軍機による昼夜を分かたぬ騒音と墜落の恐怖を強いる着陸帯の撤去を求めて、これからも全力で頑張ります。