エッセイ

水曜随想 弾雨を逃げたきょうだい

 

 9月、兄の88歳のトーカチ=米寿、義姉85歳(生まれ年)のささやかなお祝いがあった。

 兄が生まれたのは1936年。直後に父はフィリピンに移民労働に出かけた。戦後引き揚げてきて47年に私が生まれた。物心ついた頃、兄は高校を卒業し、米軍基地で働いた後、4トントラックの運転手として、朝から晩まで汗まみれになって働いていた。兄弟の会話を交わした記憶はほとんどない。家計を助けるために必死だったようだ。

 2歳違いの姉と兄、母の3人で戦渦をくぐりぬけた。姉が数年前に亡くなった時、兄は大泣きしていた。戦争の弾雨の中を必死に逃げまわった頃のことを思い出していたようだ。兄は国民学校2年生。姉は4年生。ただ、その頃の体験について、私たち年下の兄弟に多くを語らなかった。

 私が市議会議員に初めて立候補したとき、自宅の懇談会で沖縄戦の記録映画を上映したことがある。「自分がいる」と兄がつぶやいている。実際は兄の姿はなかったが、全く同じような戦場の逃避行を続けていたので、思わず口走ったのだった。

 義姉が結婚して私たちと一緒に生活を始めた頃、那覇の公設市場に野菜を出荷する準備でものすごく忙しい日々だった。準備しながら、義姉はときどき「広く知られた沖縄の 犠牲になった女学生♪ ひめゆり部隊の物語 物語♪」と口ずさんでいた。看護要員として、戦場に動員された10代の学徒隊の歌だ。歌詞は、戦場の生々しい過酷な場面もあるが、義姉はなぜか一番の歌詞だけを繰り返していた。自らも体験した過酷な戦場を思い出したくなかったのかもしれない。

 私は沖縄戦の体験者に囲まれて少年時代を送った。そして、沖縄を二度と戦場にさせないという強い決意をひしひしと受け止めながら日本共産党に入党した。戦争を直接体験していない私は、きょうだいがぽつりぽつり語る会話に耳をすまし、資料館の証言動画から住民の視点からの戦争を学び、憲法9条を孫の世代にきちんと引き継げるよう頑張っている。(しんぶん赤旗 2023年10月4日)

 

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