エッセイ

水曜随想  平和祈念資料館の「言葉」

 

 

  国連憲章の前文は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い‥」と始まる。「戦争の惨害から将来の世代を救い」が戦後世界の原点だ。

 

 そもそも国連憲章は、武力による威嚇、武力の行使を禁止し、それに違反する国には、加盟国全体で対処するという集団安全保障体制をめざすものだった。

 

 国連憲章に全く異質の集団的自衛権をむりやりねじこんだのがアメリカだ。その後、集団的自衛権は、アメリカのベトナム侵略や旧ソ連のアフガン侵略など大国の戦争の口実にされてきた。

 

 戦争を放棄し戦力の不保持、交戦権を否定している日本国憲法は、国連憲章の平和主義をさらに徹底したものだ。集団的自衛権がはいりこむすきまはどこにもない。国策をあやまった戦争への反省と不戦の誓いが日本国憲法の平和主義の背景だ。

 

 安倍首相は今週中にも集団的自衛権の行使容認の立場を表明する。砂川判決が根拠だとしていたが、今では国民的反撃にあってすっかり色あせてしまった。根拠を失ったまま「基本的な方向性」なるものを今週、首相が発表する。破れかぶれの暴走だ。

 

 沖縄県糸満市の「沖縄県平和祈念資料館」の展示室の出口につぎのような「むすびの言葉」が掲げられている。

 

 沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものはこれほど残忍で これはど汚辱にまみれたものはないと思うのです この なまなましい体験の前ではいかなる人でも戦争を肯定し美化することはできないはずです 戦争をおこすのは たしかに 人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも私たち 人間 ではないでしょうか 戦後このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み平和な島を建設せねば と思いつづけてきました これが あまりにも大きすぎた代償を払って得たゆずることのできない 私たちの信条なのです 

 

 われわれはなぜ憲法9条をもっているのか。歴史の重い事実を絶対に覆すことはできない。自らに問いかけながら、走り続けている毎日だ。(しんぶん赤旗 2014年5月14日)

 

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