日本共産党の赤嶺政賢衆院議員に「基地のない平和な沖縄」にむけたたたかいの到達点とこれからの課題を聞きました。(聞き手・山田英明記者)
沖縄の祖国復帰で、県民が切実に求めたのは、日本国憲法のもとで、「核も基地もない平和で豊かな沖縄」を実現することでした。
蹂躙された思い
米軍の施政権下で、軍事がすべてに優先され、県民の人権は虫けら以下に扱われました。
米兵が6歳の少女を拉致し、暴行殺害して遺棄した事件(「由美子ちゃん事件」)に象徴される婦女暴行・殺害などの米軍犯罪が多発しました。そうしたアメリカの軍事的植民地的支配のもとで、県民は人権と自治の回復、祖国復帰のたたかいをくりひろげていきました。このたたかいのなかで、祖国復帰とは、日本国憲法のもとへの復帰という願いが高まっていきました。
復帰以前は、パスポートがなければ、本土にも渡航できませんでした。私たちは沖縄県民ではなく琉球住民として扱われてきました。文字通り国籍不明の扱いでした。ですから、施政権返還を喜ばない人はいません。
しかし、“喜び”の一方で、40年前の5月15日には、「返還協定」にたいする1万人の抗議集会が開かれました。“復帰すれば当然、米軍基地はなくなる”との県民の思いが真っ向から踏みにじられたからです。憲法ではなく、安保体制への復帰を強いられました。
国際法を蹂躙(じゅうりん)してつくられた米軍基地は、日米安保条約で正当化されたのです。
当時、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)琉球政府主席は、「沖縄の現状を安保条約で正当化したら、安保の改悪になる。『沖縄の本土化』ではなく、『本土の沖縄化だ』」と告発しました。県民が望んだ真の復帰を妨げたのは日米安保条約でした。
復帰後40年がたった今も、安保条約の下で、“軍事優先、民の尊厳なし”という現実が続いています。
島ぐるみの声に
沖縄のたたかいに息づくのは「一致点での共同」という考え方です。これは、琉球政府主席公選制の実現や祖国復帰協議会の結成、立法院選挙での革新共闘として実践され、過酷な米軍の支配を打ち破る大きな力となりました。
「一致点での共同」が復帰後に大きくまとまったのは、1995年の少女暴行事件に抗議する県民大会、普天間基地の「県内移設反対」を掲げた2010年の県民大会でした。
この間に、普天間基地(宜野湾市)を名護市辺野古に「移設」するという「沖縄に関する日米特別行動委員会」(SACO)合意によってたたかいに分断が持ち込まれましたが、これを乗り越え、いまや「県内移設反対」は党派を超えた島ぐるみの声となっています。
安保廃棄の展望
今こそ、「復帰」のときの原点に返ったたたかいが大事です。真の復帰を実現するには、安保条約をなくすことが必要です。
安保がものすごく大きな壁に見えて、安保はなくなるわけがないという人がいます。
しかし、それは違います。私自身、復帰前は「沖縄と本土を隔てた北緯27度線の壁は、一生涯かかっても乗り越えることはできない」と考えていました。でも現実はそうではなかった。大きな壁だった27度線は突破できました。
日本共産党は、安保条約をなくすという展望を持っている政党です。そういう立場にたった勢力が県民の多数になったときに、沖縄の基地の現状を変える展望が開けます。そのためにも来るべき県議選や総選挙で躍進したいと思っています。(しんぶん赤旗 2012年5月15日)