エッセイ

水曜随想  瀬長日記と米軍基地闘争

 

  1956年12月25日、米軍基地の島沖縄に「赤い市長」が誕生して米国を震撼させたことがある。那覇市長に当選したのは、瀬長亀次郎さん。当時、沖縄人民党の書記長だった。

 その時期の瀬長さんの日記が本になった。瀬長日記としては2冊目になる。実に面白い本だ。苦闘の記録を読み終わって心が洗われた。

 1956年6月、米国は、米軍基地の恒久化をめざし「プライス勧告」を発する。沖縄県民は土地を守る四原則の要求を掲げて、プライス勧告に抗してたちあがった。銃剣とブルドーザーによる土地強奪の出来事の直後のことだ。

 この時期の県民人口は80万人。県下各地で開催された「四原則貫徹県民大会」には50万人が参加したという。島ぐるみの闘いが燎原の火のように広がった。

 しかしながらこの闘いは、米国の凶暴な弾圧と県民分断策によって切り崩される。1956年11月30日の日記に瀬長さんは、「土地協が4ヶ月の活動に終止符をうった。・・・党の独自活動がどんなに統一戦線を強化しねばり強い抵抗運動の保証になるか、はっきりと証明されたようなものだ。」と書いた。

 沖縄人民党は、「4原則貫徹」を堅持して、12月の那覇市長選挙は党公認で闘う事を決める。11月4日の日記には、「地方自治体に抵抗の力をうちこむ絶好のキカイである」と書かれている。「赤い市長」当選は12月25日。沖縄県民から米国への最高の「クリスマスプレゼント」だった。

 米国は、援助資金の凍結、水源地の剥奪、親米勢力を使った市長不信任など、凶暴な手段を動員して「赤い市長」打倒に走る。沖縄県民は「赤い市長」を守るためにたちあがる。闘いの生々しい記録が日記に綴られている。

 米国は、強権を発動、布令によって「自治法」を改定し、翌年11月25日、瀬長那覇市長を追放した。一年足らずの市長在任だった。11月26日の日記には、「・・市長追放抗議県民大会、7時からハーバービュー広場で開く。10万余の大群衆となっている。・・・私は勝ちました。アメリカはまけました。第2のセナガを出すのだ。それが布令に対するこよなきプレゼントになるのだとよびかける」とあった。

 本の表紙が10万人抗議集会の写真だ。沖縄県民は、いまも米軍基地と闘っている。この闘いの勝利の保証は、安保廃棄の旗かかげた日本共産党の総選挙での躍進以外にない。(しんぶん赤旗九州・沖縄面2009年4月29日)

 

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