エッセイ

水曜随想  取り戻した超党派の団結

 

 4月18日、鹿児島県徳之島の「米軍普天間飛行場の移設反対集会」には島の人口の6割、1万5千人が集い、大規模な住民運動に発展した。

 島の人たちを結びつけたのは、戦後8年間、異民族支配下での奄美群島の祖国復帰闘争の歴史だ。普天間基地の移転を政府から突きつけられて、沖縄の基地の現実を学び、基地移転は「第二の沖縄」をつくり軍事基地の拡張・強化につながることをつかみ、必死に立ち上がった結果だ。

 鳩山内閣が、移転先探しを続ける限り、怒りは全国に燃え広がる。25日はいよいよ10万人の参加をめざす沖縄県民大会。沖縄からさらに強い民意が示されることになる。

 メディアは、鳩山総理の辞任問題に触れ始めた。彼が辞任に追い込まれても、新しい内閣がまた移転先探しをはじめたら、沖縄は永久に変わらない。

 政局の混乱は、これから起こる激動の歴史の一コマにすぎない。今必要なことは、日本政府が外交政策を転換し米国に無条件撤去を求めることだ。

 1995年、米海兵隊による少女暴行事件に端を発した沖縄の「米軍基地問題」が、15年の時をへて新たな段階を迎えている。被害にあった少女は、28歳になる。いまでも心の傷に苦しんでいることだろう。被害者にとって時の長さは関係ないのだ。

 人間の尊厳が軍隊によって破壊された現実に、沖縄県民の怒りが爆発し、95年10月21日、8万5千人の超党派の県民大会が開催された。事態の発展をおそれた日米両政府は、突和「普天間基地の返還」を発表した。ところが、それは名護市の辺野古に新しい基地を建設する移設条件つき。県民は失望した。

 移設条件を受け入れる勢力も現れ、県民の超党派のたたかいは分裂させられた。たたかいは前進、後退をくりかえし、13年目にして今年1月、「海にも陸にも基地はつくらせない」という名護市長を誕生させた。

 そしていま、沖縄県民は、改めて広大な米軍基地の存在に注目し、少女をはじめ、泣き寝入りさせられた被害者の思いに自らの決意を重ねて、新しい基地への県内移設を絶対に許さないという決意を固めている。

 鳩山内閣の裏切り行為を許さないという決意の底には、戦後沖縄の歴史が流れている。超覚派の団結もとりもどした。

 4月の日曜日は、親族がお墓の前に集まり、先祖の霊を慰め、家族の健康と繁栄を祈る伝統行事「シーミー(清明祭)」も重なる。しかし「県民大会があるから日をずらしたよ」という会話もあたりまえのようにとびかっている。県民大会はご先祖も一体だ。

 このたたかいを、もっと大きく広げ、参院選挙で「日米安保」を大争点にして、党の躍進をかちとり、〝安保絶対″の政治を抜本的にみなおす歴史的時期を切り開きたい。(しんぶん赤旗 2010年4月21日)

 

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