活動報告

オール沖縄県政10年(上) 大義掲げ闘い続く

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新基地阻止・オスプレイ配備撤回へ

 「保守」「革新」の垣根を越え、辺野古新基地建設反対、オスプレイ配備撤回を掲げた「建白書」の実現を目指す「オール沖縄」県政。2014年11月16日の故・翁長雄志氏の知事初当選から10年を迎えました。日本全体に広がった「市民と野党の共闘」の源流にもなった「オール沖縄」県政はいま、玉城デニー知事の下、大義の旗を掲げて闘い続けています。

 2013年11月、沖縄県民の誇りと尊厳が傷つけられた出来事が起こりました。

 当時、沖縄県では自民党の県選出国会議員から県議・市議にいたるまで名護市辺野古の米軍新基地建設反対で一致していました。ところが同党の石破茂幹事長(当時=現首相)が国会議員5人を党本部に呼び出し、「辺野古容認」へと転換させたのです。「平成の琉球処分」として、今も県民の記憶に刻まれています。翌月、自民党の仲井真弘多(ひろかず)知事も公約を裏切り、辺野古埋め立てを承認。県民の怒りが噴出しました。

迫られる選択

 こうした動きのなか、沖縄の自民党に身を置く各人は選択を迫られていました。今回の衆院選で、「オール沖縄」代表として沖縄4区から立候補した金城徹氏(立憲民主党)も、その一人でした。那覇市議会の議長経験者で、市議会最大会派・自民党新風会に所属していた重鎮です。同党のある国会議員の選対責任者でもありました。

 「辺野古新基地反対で当選したのだから、だめなものはだめだという空気は当時強かった。私は迷うことなく、その道に突き進んでいこうと思いました」。金城氏は、こう振り返りました。一方、上京する直前のこの国会議員に「那覇市民があなたに託した思いは、やはり辺野古反対だ。有権者の側に立つのか、党の偉い人の側に立つのか、よく考えてほしい」と助言しましたが、結果は有権者への裏切りでした。

建白書を提出

 そうした中で、那覇市の翁長雄志市長に、党派を超えて、県知事選(14年11月)への立候補の期待が高まります。翁長氏はかつて、辺野古新基地推進の立場でしたが、県民の民意に寄り添い、「辺野古に新基地を造らせない」との立場を決意。13年1月には、県内全41市町村長、市町村議会議長らが、オスプレイの配備撤回と普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念を求める「建白書」を安倍晋三首相(当時)に提出しました。そのとりまとめを主導したのが翁長氏でした。

 問題は、翁長氏を擁立するため、保守から革新まで一致して推せる「オール沖縄」の枠組みをどう構築するのか、ということです。そこで大きな役割を果たしたのが金城氏でした。

 (1面のつづき)

 

 

県民心一つに揺るがぬ団結を

 「辺野古新基地建設、オスプレイ配備に敢然と反対し、先頭に立って奮闘してきた翁長市長の政治姿勢は、那覇市民をはじめ県民から高い評価を受けている。県の政治行政に求められているのは、確固たる信念と県民の信頼に応え得るリーダーの登場である」。2014年6月5日、金城徹氏は自民党新風会の会長として、翁長雄志那覇市長に県知事選への出馬を要請しました。

 さらに金城氏は、翌6日の市議会本会議でも翁長氏に「県民の信頼を広く集め、県民の心を結集し、県民の負託に十分応え得る最適任の候補者として、(新風会は)ぶれない政治家翁長雄志を県知事選候補者として決定した」と迫りました。

 これらが契機となり、辺野古新基地建設に反対する各党や労組・市民団体の要請が相次ぎ、「オール沖縄」の枠組み構築に向けた動きが加速。同年9月、翁長氏が出馬表明するにいたりました。

 その過程で、金城氏らは自民党から除名処分を受けます。金城氏は、当時の事情をこう明かします―。

何ら悔いはない

 「自民党県連の幹事長から(辺野古新基地建設反対の)翻意を促され、水面下で新風会の一部議員にも接触していました」「『あなた方も辺野古新基地反対で当選した。政治家にとって公約は命と引き換えぐらいに大切なものだ。公約を破った県議が公約を守った市議を除名する。ふざけるな』という趣旨で切り返しました。私が自民党を離れたというより、自民党が私から離れたという感覚です」

 今回の衆院選公示直前の10月6日、日本共産党の赤嶺政賢衆院議員(沖縄1区)とともに街頭宣伝に立った金城氏は、こう訴えました。「県民が一つになってこそ、難題である辺野古の基地建設を止めることができる。そのために私は自民党から除名されましたが、何ら悔いはございません」

 14年11月16日夜8時すぎ。「翁長氏当選」の速報が相次いで流れました。現職の仲井真弘多氏に約10万票の大差をつけた圧勝でした。直後に行われた衆院選(12月14日)では、「オール沖縄」候補が4小選挙区すべてで完勝しました。

 14年12月10日、県知事に就任した翁長氏は県庁ロビーで職員を前に、「辺野古新基地反対」を県政の柱にすえると表明。これに対して、政府は行政不服審査法など既存の法令の趣旨をねじ曲げ、司法も抱き込んで県を抑え込みにかかります。

 18年7月27日、翁長氏は全身に転移したがんの痛みに耐えながら記者会見に臨み、辺野古埋め立て承認の「撤回」を表明。その結末を見ることなく、8月8日、壮絶な最期を迎えました。文字通り、「命と引き換え」で公約を全うしたのです。

 その直後の8月11日、翁長氏の志を継ごうと7万人が那覇市内の陸上競技場に集い、「オール沖縄」県政の継承を誓いました。その後、玉城デニー衆院議員(沖縄3区)が知事選への立候補を表明。デニー氏は18年、22年と自公候補に圧勝しました。

 この間、政府はデニー県政による辺野古埋め立ての設計変更申請不承認に対し、県の権限を奪う「代執行」を強行。「オール沖縄」陣営の分断工作も続き、少なくない人が裏切り、また離れていきました。強大な国家権力に対する沖縄県民の苦闘は、まさに現在進行形です。

 こうした中、衆院選で、「れいわ新選組」の山本太郎代表が「オール沖縄の歴史的役割は終わった」と公然と表明し、4区に候補を擁立。さらに1区での擁立まで一度は発表し、「オール沖縄」の団結に大きな困難をもたらしました。金城氏は言います。

誰が仲間なのか

 「辺野古以外に、先島地域の軍事要塞(ようさい)化など、『オール沖縄』が結束して取り組むべき幅広い課題があるのは事実です。そこはみんなで議論して新しい方向性を示していけばいい」「ただ、翁長さんと話をしていたのは、『オール沖縄』がついえてしまうとすれば、それは『オール沖縄』の中に分派のような形ができて、お互いが攻撃し合う状況になったときだろうと。それはまさに、これまでの沖縄県の歴史です。翁長さんが言う『うちなーんちゅ(沖縄県民)同士の対立を、国が上から笑ってみている』状況です。誰が仲間なのか、誰が敵なのか、もう一度、考えなければなりません」

 10月27日、衆院沖縄1区で、赤嶺氏は自民党候補との得票差を前回よりも広げ、4連勝を果たしました。比例代表での当選を含め、「圧巻の9選」です。勝因を問われた赤嶺氏は、こう答えました。「オール沖縄の団結は揺るがないぞと、これが一番の勝因だと思います」

 (つづく)

 

 

■「オール沖縄」に関する主なできごと

2013年1月 翁長雄志那覇市長が「建白書」を提出

   11月 自民党国会議員5人が辺野古反対の公約を撤回

   12月 仲井真弘多知事が辺野古埋め立てを承認

 14年11月 県知事選で翁長氏が仲井真氏に約10万票の大差をつけて勝利

   12月 衆院選で「オール沖縄」候補が4小選挙区で完勝

 15年10月 翁長知事が辺野古埋め立て承認を取り消し

      沖縄防衛局が辺野古埋め立てに向けた本体工事着手を強行

 18年7月 翁長知事が辺野古埋め立て承認の撤回手続き開始を表明

   8月 翁長雄志知事が67歳で亡くなる

   9月 玉城デニー氏が県知事選で自公が押す佐喜真淳氏に約8万票差の圧勝

   12月 沖縄防衛局が辺野古埋め立て土砂投入強行

 19年2月 県民投票で辺野古埋め立てに71.7%が反対

 21年11月 デニー知事が、新基地建設の軟弱地盤改良工事に伴う設計変更申請を不承認

 22年9月 デニー知事が約6万5000票差で佐喜真淳氏に圧勝し再選

 23年12月 国交相が設計変更を承認する「代執行」強行

 24年1月 沖縄防衛局が、大浦湾側での工事着手

■沖縄県知事の推移

1972年 屋良 朝苗(革新)

 76  平良 幸市( 〃 )

 78  西銘 順治(自民)

 82    〃  ( 〃 )

 86    〃  ( 〃 )

 90  大田 昌秀(革新)

 94    〃  ( 〃 )

 98  稲嶺 恵一(自公)

2002    〃  ( 〃 )

 06  仲井真弘多( 〃 )

 10    〃  ( 〃 )

 14  翁長 雄志(オール沖縄)

 18  玉城デニー( 〃 )

 22    〃  ( 〃 )

 (3面)

(しんぶん赤旗 224年11月16日)

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