この夏、NHKの「朗読の世界」という番組で、宮城喜久子著『ひめゆりの少女・十六歳の戦場』が全25回にわたって放送された。宮城さんは「ひめゆり学徒隊」の生き残りで、ひめゆり平和祈念資料館の建設を中心になって進め
た人だ。
1945年3月、沖縄戦が始まったとき、米軍の兵力は後方支援も含めて総勢55万人、日本軍はおよそ10万人。戦力の差は誰の目にも明らかだった。日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を根こそぎ動員した。沖縄師範学校女
子部と沖縄県立第一高等女学校からも、生徒と教師240人が看護要員として戦場に動員され、うち136人が犠牲になった。戦後、彼女たちは、2校の愛称にちなんで「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになった。
実は、私の中学2年、3年のクラス担任の吉村秀子先生もひめゆり学徒隊の生き残りだった。ところが、当時、先生はそのことを一切生徒に語らなかった。61年ごろだ。戦争が終わって15年以上がたっていた。
宮城さんは、著書の中で、学友たちが戦火の中で死んでいったときの様子を生々しく語っている。銃弾で撃たれ、苦しむ学友たちを見捨てざるをえないこともあった。軍国少女だった学徒たちが、自らの体験を語り始めたのは80年代に入ってからだ。それまでは思い出すのも苦しく、生き残った自分を責め続けていた。
米軍に包囲されて、死の淵に立たされていたとき、一人の学友が「もう一度、弾の落ちない青空の下で、大手を振つて歩きたい」と叫びながら死んでいった。国策の誤りが彼女らの生きる希望を断ち切った。この体験を「殉国美談」の物語にすることを拒否し、平和憲法の下で二度と戦争を起こさせない決意で、生き残った同窓生たちは語り始めた。
その証言を根拠もなく否定し、ひめゆりの塔の展示説明を「歴史の書き換え」と攻撃しているのが、自民党の西田昌司参議院議員や参政党の神谷宗幣代表らだ。歴史修正主義と正面から闘う決意を固めて、放送を聞き終えた。(しんぶん赤旗 2025年8月27日)
ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長の説明を聞く衆院沖縄北方特別委員会の議員ら=8月20日