エッセイ

水曜随想  日米政府に抵抗の鐘を

 

 昨年12月24日、米兵による少女暴行事件が発生していた。事件発生から半年もたった6月25日、県内メディアの報道で明らかになった。県警の担当者は、私たちの追及に、「米兵による暴行事件は、以前は公報していた」と説明した。現在は警察庁の判断を待たなければならないようだ。

 日米両政府は、事件発生後、迅速に沖縄県に通報する仕組みに合意している。1995年の少女暴行事件に県民の怒りが爆発したのを受け、97年に合意したものだ。今回それが全く形骸化していた。岸田首相は、6月23日の沖縄全戦没者追悼式に参加した。事件について報告を受けていたが、一切語らなかった。

 沖縄の戦後史は、米軍基地あるが故の事件・事故に幾度となく抗議の声を上げてきた歴史でもある。

 基地の街コザ市(現沖縄市)で、福祉の母と呼ばれた島マスさんは、米軍の直接統治下に置かれた戦後すぐの沖縄の様子を次のように語っている。

 「女性は安心して外出もできない、家のなかにいても、いつ米兵が入りこんでくるか分かりません。人びとは自衛手段として、鐘を打ち鳴らして身を守りました。その鐘は、米軍の火炎放射器の酸素ボンベや砲弾のヤッキョウなどでした。婦人を暴行しようとして入ってきた米兵は、この鐘で追い払われたのです」(『島マスのがんばり人生』より)。

 

(島マス 上記の著書より)

 

 95年の少女暴行事件のときは、8万5千人の県民大会が開催された。米軍統治下と変わらない現実に、県民は怒りを持って立ち上がった。日米両政府は、米軍が沖縄から撤退を求められる不安と恐怖を抱いた。

 今回、決してあってはならない事件が、立て続けに5件も起こっていた。そのすべてが隠蔽(いんぺい)されていた。

 県内22の女性団体で構成する県女性団体連絡協議会(女団協)が事件に抗議し、再発防止などを求める県民大会の開催を呼びかけている。この夏、沖縄県民は、戦後後続いてきた女性の人権と尊厳を蹂躙(じゅうりん)する日米両政府に対して、抵抗の鐘を打ち鳴らす準備を続けている。(しんぶん赤旗 2024年7月31日)

 

(県民大会の開催を呼びかける女団協や賛同団体の人たち=しんぶん赤旗 2024年7月27日)

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