米軍基地になり、戦後70年たっても遺骨収集ができず、冷たい土に埋もれたままの戦没者。9月11日の衆院厚生労働委員会での日本共産党の赤嶺政賢議員の質問で、沖縄の戦没者遺骨収集問題が動き始めました。
赤嶺氏は、遺骨収集をおこなっている「ガマフヤー(壕=ごう=を掘る人の意)」の活動を紹介しながら、遺骨収集事業は、遺族に遺骨を返すことと同時に、いかに無謀で人命も人権も無視した残忍な戦争であったかという戦争の実相が見えてくると指摘。
遺骨の状況や遺留品、戦争の遺物など発見された状況や物をしっかりと記録すること、地面を掘り返す際のていねいな作業などを提起しました。そのうえで、多数の遺骨が残されていると思われる米軍キャンプ・シュワブ内での遺骨収集をおこなうよう求めました。
終戦直後、米軍は16地区に30万人を収容所に入れました。テントでムシロを敷いて寝た収容所も少なくなく、食糧も不十分で、多くの人がマラリアなど病気で亡くなりました。今は、米軍キャンプ・シュワブになっている大浦崎収容所もその一つです。
厚労相に要求
赤嶺議員は、名護市が編さんした証言集を引き、キャンプ・シュワブ内で亡くなった人の遺骨収集を求めました。
赤嶺議員 「基地の中であってもちゃんと調査をして遺骨を収容すべきだ」
塩崎厚労相 「ご指摘のキャンプ・シュワブ等米軍基地内の遺骨収集につきましては、まず関係者の証言などの遺骨情報の有無を沖縄県から伺うこととしたい。仮に情報がある場合には、外務省、防衛省などと連携をして、基地内の遺骨収集について米軍側に対して要望を行うことについて検討したい」
赤嶺議員は「政府として責任を持って収容すべき遺骨があれば、米軍基地の中であろうとやらなきゃいけないという認識でよいか」と念を押し、塩崎厚労相は「おっしゃるとおり」と答弁しました。
「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんは、「よく質問していただいたと思います。はるか遠くの外国ではなく、沖縄県内の手の届きそうなところに遺骨が眠っているのに、基地のフェンスに阻まれ、70年も放置されてきました。基地のなかの遺骨収集はハードルが高いと思っていましたが、道が開けたことはうれしい」と歓迎します。
宜野座村では、体育館建設に先立って調査(1983年)したところ161体の遺骨が掘り出されました。大浦崎収容所は、早くに米軍基地にされていることから、ほかの収容所以上に遺骨が残されている可能性が高いとみられます。
人道上の問題
「一日に十名前後の死者が出たといわれ、戦後、二、三年たっても辺野古の森には何百と墓碑が立っていた」(「辺野古公民館だより92年12月号」)という証言もあります。
具志堅さんは、「遺骨を持ち帰ることができなかった人が、その後、生活が落ち着いて遺骨を探しに行こうとしても基地になってしまっていたというケースもあったと思います。遺骨を遺族のもとに返すことは、人道上の問題です。人権の一部といってもいいでしょう。遺骨を引き取っていない遺族を捜しています。情報をお寄せいただきたい」と話しています。(しんぶん赤旗 2015年9月29日)