「誰一人取り残さない社会」へ
辺野古新基地問題が浮上したきっかけは1995年9月の米兵による少女暴行事件でした。日米両政府は県民の怒りをかわすため、「世界一危険」とされる米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の「移設条件付き」返還を打ち出し、名護市辺野古への「移設」に動き出します。
辺野古をめぐって県民の間に分断がもたらされましたが、日本共産党は当初から新基地の危険性を告発してきました。2008年6月の県議選で、共産党が3から5議席に躍進。同年7月、自民党県政の下でも、県議会で賛成25、反対21の多数で「名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する」画期的意見書が可決され、10年4月、「県内移設」反対を掲げた、9万人規模の県民大会が開かれました。
日本共産党の渡久地修県議団長は「その後、自民党も、当時の仲井真弘多(ひろかず)知事も『県外移設』を公約に掲げることになりました」と振り返ります。こうした県民の運動は、13年1月に安倍晋三首相(当時)に提出された、オスプレイ配備撤回と普天間基地閉鎖・撤去、県内移設断念を求める「建白書」に結実します。
しかし、13年11月、自民党の県選出国会議員が石破茂幹事長(当時、現首相)の圧力に屈し『県外移設』の公約を撤回し、辺野古容認に転換。仲井真氏も翌月、辺野古埋め立てを承認し、県民を裏切りました。ここが「オール沖縄」県政への転換点となりました。
分断乗り越え
戦後、沖縄県は米軍に占領され、「基地の島」とされてきました。1972年の日本復帰後も、米軍専用基地の7割超が押し付けられ、過剰な基地負担に苦しんできました。一方、「基地と引き換え」の振興策や交付金で「基地か経済か」という分断が県民にもたらされてきました。
こうした分断をどう乗り越えるのか。渡久地氏は、基地が返還された那覇新都心や北谷(ちゃたん)町のハンビータウンなどの発展をあげ、党として「米軍基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因」だと論戦してきたことをあげます。渡久地氏は、翁長雄志氏が14年の県知事選公約で同じ認識を示し、基地に頼らない「誇りある豊かさ」を掲げ、圧勝したことに、強い感慨を示しました。
子の貧困対策
共産党県議団は文字通り「オール沖縄」県政の柱として、積極的な提案を行ってきました。暮らしの問題でも、県独自の子どもの貧困調査などを繰り返し提言。翁長県政は15年に調査を実施し、全国に先駆けた子どもの貧困対策に乗り出し、16年3月には「県子どもの貧困対策推進基金」(30億円)を創設しました。
玉城デニー県政は同基金を過去最大の60億円規模に拡大。子ども医療費を中学卒業まで無料に、少人数学級を中学校3年までの全学年に拡大するなど「誰一人取り残さない県政」に向けて前進しています。
コロナ禍での県経済への打撃、深刻な物価高など、県民の暮らしは深刻さを増し、基地問題も自衛隊増強など新たな状況も生じています。渡久地氏は言います。「辺野古新基地反対の大義を掲げ一致点で協力する『オール沖縄』県政の発展が求められている。あきらめず闘い、分断をはね返し県民の心を一つにしてこそ沖縄の未来は切り開ける」(おわり)
(この連載は小林司が担当しました)
(2面)
(しんぶん赤旗 2024年11月17日)