不屈と統一戦線の精神継ぐ
沖縄人民党と日本共産党の組織的合流から10月31日で50年。不屈のたたかいの歴史と意義を日本共産党沖縄県委員長の、あかみね政賢衆院議員に聞きました。
1947年7月に創立された沖縄人民党は、米軍の直接統治のもとでの過酷な暴政・弾圧に抗し、祖国復帰運動の先頭に立ち続けてきました。人民党は、沖縄を日本から分離するサンフランシスコ平和条約第3条撤廃を求め、その要求は沖縄県祖国復帰協議会の活動方針に掲げられ、統一戦線組織の合意となりました。68年11、12月の琉球政府主席、立法院、那覇市長の「三大選挙」で革新民主勢力の歴史的勝利が決定的な力となり、72年、沖縄の施政権返還が実現します。
人民党の歴史を貫く特徴は、いかなる弾圧にも屈せず、正義と真理を守ってたたかう不屈性、科学の立場で前途を見通す先駆性と常に大衆と深く結びついて進む大衆性です。
こうした伝統のうえに科学的社会主義の党への発展を目指した人民党は73年10月、日本共産党への合流を決定し、日本共産党沖縄県委員会を確立しました。同年11月の日本共産党第12回大会で宮本顕治委員長は「わが党の組織が文字通り日本の全県に公然と確立されるという点で画期的だ」と述べています。
日本共産党が公然と活動できなかった時期、人民党は綱領にこそ書かれていませんが、実際には科学的社会主義の精神に沿ってたたかってきました。従って、人民党が日本共産党に組織的合流をしたことは、情勢の発展の下で必然でした。
安保廃棄を掲げ
合流時、沖縄県党が最も重視したのは日米安保条約廃棄の堅持です。復帰してもなお残る広大な基地と沖縄県民の矛盾が激化しているもとで譲ることのできない大事な旗印でした。
米軍那覇軍港の浦添市移設=新軍港建設反対、恩納村の米軍都市型戦闘訓練施設の撤去、県道104号線越え実弾砲撃演習の中止、東村高江のヘリパッド(着陸帯)建設反対、金武町伊芸区の米軍実弾射撃場レンジ4撤去―などの基地闘争で住民と共に立ち上がり、安保廃棄の旗を掲げてたたかってきたのが日本共産党でした。
名護市辺野古の米軍新基地建設の発端である米軍普天間基地の「移設条件付き返還」を決めたSACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意についても、県党は、基地被害を別の場所に移すだけの「基地たらい回し」だと批判し、新基地建設に当初から反対し、普天間基地の無条件撤去を求めてきました。「基地たらい回し」に同調的な意見が革新勢力の一部に生まれる下で、それでは解決につながらないという立場を貫き通しました。安保廃棄を掲げる日本共産党の真価が発揮された瞬間でした。
オール沖縄発展
もう一点、人民党の精神を引き継いで県党が大事にしたのが統一戦線です。95年、米兵による少女暴行事件に県民の怒りが爆発し、県民総決起大会で日米地位協定改定、基地の「整理・縮小」などを決議しました。
県民大会の開催にあたり、党は県民の一致点を大切にし、安保廃棄を要求項目に入れることは求めませんでした。当時、沖縄県議会議長だった自民党の嘉数知賢氏は「共産党が安保廃棄のスローガンを大会に求めなかったことで自分たちも県民大会に参加せざるを得なくなった」と語っていました。
その後、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(2007年)、「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」(12年)などたたかいの高揚の中、辺野古新基地建設反対で県民が大同団結します。
新基地断念などを求めた「建白書」(13年)実現を旗印に保守と革新の垣根をこえた「オール沖縄」・翁長雄志知事が誕生し、玉城デニー県政へと発展しました。「オール沖縄」の力は、全国的な市民と野党の共闘に大きな影響を与えました。
那覇市長だった翁長さんを知事候補に担いだ時、自民党議員から「共産党が辺野古新基地問題で頑張ってきたから私たちもここまで来られた。私たちは安保には賛成だが、安保の賛否を超えて辺野古新基地は絶対に造らせないために団結しよう」と言われたことを鮮明に覚えています。
安保廃棄を掲げる一方、新しい情勢のもとで統一戦線や「オール沖縄」発展のために柔軟に対応してきたことが沖縄県党50年の大きな特徴です。
県に強大な党を
辺野古新基地建設をめぐる裁判で、日米両政府言いなりの司法への怒りとともに、デニー知事を支える県民の力が大きくなっています。安保3文書で沖縄を再び戦場にするのかという怒りも広がっています。
沖縄人民党と日本共産党の合流直後に開かれた前述の第12回党大会(73年)決議は「党は、沖縄に強大な党を建設し、沖縄をアメリカ帝国主義の日本とアジア支配の拠点から、日本人民解放のたたかいの拠点にするために奮闘することが重要である」と宣言しました。今、その真価を発揮するときです。第29回党大会成功へ、130%の党づくりに全力を挙げる決意です。(しんぶん赤旗 2023年11月1日)